読書がアウトプットになっている。
日々の生活のなかで、誰かに聞いてほしいなということができたら本をひらく。本の著者に意見を聞いてもらい、受け止めてもらう。議論して助言までもらい、なんだかすっきりした気持ちになって本を閉じる。こんな風に本を読む私にとって、読書はアウトプットにあたる行為だ。
最近こんなこと考えているんですけど…と時に恐る恐る話しかけ、面白い返答や思ってもいない意見をもらう。そこで得たものはただ入ってきた”情報”とは少し違って、自分の頭を使った能動的な”経験”だ。思っていることを外に出し、フィードバックをもらって考えを磨いていく。
本を開けば、書き手の声(文体のこと)がする。人によって話し方や話すペースが違って、頭の中ではそれぞれの個性的な声が再生される。その日の気分によって話す相手を変えられて、元気な昼、静かな夜、うじうじする日、腹立たしい日、本を開く元気がないときでも頑張ってパラパラすると、誰かしらが受け止めてくれる。
人間、気のあう人なんてそうそう出会えるものではない。でも2500年前まで範囲を広げたら、さすがに一人二人見つかる。初めはぎこちなく、でも少しずつ仲良くなって旧知の間柄になればもう大丈夫、自在に話ができる。話題を共有し、感情まで共感できたらこれにまさる喜びはない。書いたその人が生きていようと死んでいようと関係なくて、やっぱりそうですよね!となった時は、つい嬉しくて微笑んでしまう。
仲良くなるまで。難しくてわからないところはとばして、わかるところから近づく。時間をあけてまた読んで、わかるかもというところもあればやっぱりわからないですとつっこむところも。生きた対人関係と同じで、わからないからもう会わないではなく、わからないから何度も話しかけたくなる。
知り合いが増えれば増えるほど頭のなかの理解の網目が広がっていくので、同じ本を読んでもその都度新しい発見ができる。遠かった点と点がつながって一冊の本が何度も姿を変えるから、退屈することはない。自分の成長・理解度にあわせて相手も変わる。本だから冷たい無生物、ではないのだ。
ある人の本で別の人の話題がでてきて、あああの人ね、と本の著者と話題の人物について話すことができる。古代ギリシャの誰かのことを中世の人と話したり、古代中国の人の思想を江戸時代の日本人と噂したり。頭の中では、みんなでひざを突き合わせて話しているイメージだ。
精神を満足させていたい。自分の思索を育てたい。本をひらけば、たくさんの友人が遊んでくれる。
故きを温めて新しきを知る。(古人の書物に習熟して、そこから現代に応用できるものを知る。)
読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。
(中略)
悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。
(中略)
精神のための清涼剤としては、ギリシア、ローマの古典の読書にまさるものはない。たとえわずか半時間でも、古典の大作家のものであればだれのものでもよい。
(『読書について』ショウペンハウエル 斎藤忍随 訳)
古典だ。古典という書物だ。いにしえの人々が書き記した言葉の中だ。何千年移り変わってきた時代を通して、まったく変わることなく残ってきたその言葉は、そのことだけで、人生にとって最も大事なことは決して変わるものではないということを告げている。それらの言葉は宝石のように輝く。
(『14歳からの哲学』池田晶子)