セネガルで暮らしながら

アフリカでのささやかな日々の中、ふと思ったことを書いています

2000年前とやっていることが変わらない

 16日はまだ中旬なのに、17日から一気に後半感がでる。 セネガルにいても1月は「行く」で、あっという間に過ぎていく。忘れないよう、近況などをまとめておく。

 目まぐるしい日々だ。職場の人や同居人の構成が変わる時期、私だけはずっと同じところにいながらその移り変わりを眺めている。変化にゆるやかに順応しながら、でも自分のペースは保ち、心を平穏に。

 最近、思考がさらに深まったように感じる。物事を何層も外から俯瞰してみるようになって、見える世界が彩り豊かになった。疑問が次々にわいてきてきりがなく、思いついた話題についてぼーっと考えて、気づいたら時間がたっている。私にとってこれは遊び。幸いにもお金のかからない娯楽だ。何を考えるかというと、例えば、星空の宇宙と精神内部の広がり、自分を基準に考えると真逆のもののように見えるけれど、おおもとでは一致しているんじゃないか?とか。現代の私たちより、縄文の人たちのほうが生態に詳しい動物がいたのでは?それは何か?とか。なにやら壮大そうなことから、日常のちょっとしたことまで、謎が尽きない。気づけば世界の見え方が少し変わっていて、日常にスパイスが加わっている。

 思考の深まりと同じくして、書くことが一段と楽しくなってきた。寝るよりも書いていたい、食べるよりも書いていたい、こういう風に思ったのは初めてで、我ながら驚いている。書くとっても、ちょっとしたメモから短い文章、詩やブログなど、形はいろいろだ。何にせよ、書きたいことが次々出てきて、はやく言葉にしなきゃという衝動に常に駆られている。あれもこれも書いて消化しなさいと、言葉に追い立てられているみたいだ。もはや私が言葉を書くというより、”ことば”が私に書かせているといった方が近いかもしれない。

 散歩も大切な時間だ。朝の日課のほか、考えすぎてうっとなったり小さな世界に疲れてしまったとき、ちょっと外に出てみる。歩きながらぼーっとしているだけでも家にいるときとは違う刺激があるので、体内の濁った空気が入れ替わる。自然のなかで言葉によらない感覚をやしなうことができるのも、散歩のいいところだ。

 読書。自分でも思索しているので、過去の人たちとの会話が一段と弾む。私が考えつくことなんてこれまでにもにたくさんの人が言及してきたことだけど、私も同じところを一歩一歩たどっているというところに意味がある。自分の頭で考えたからこそ、彼らと同じ見解になったとき震えるほどの共感があるし、納得できない主張には反論して、議論することができる。遠くまで進んでいる著者からヒントをもらう、またひとり思索の旅に出る、の繰り返し。

 

 あらためて書いてみると、私、やっていることが2000年前の人と変わらない。現代の娯楽に縁のない生活だ。お金がないからこういう生活なのか、こういうことで楽しめるからお金を増やす気にならないのか。自分でもわからない...。

 でも、頭を使って自分を知っていくって楽しい。

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