セネガルで暮らしながら

アフリカでのささやかな日々の中、ふと思ったことを書いています

本との向き合い方の変化

読書が面白いのは、読了数が増えるにつれ本との向き合い方が変化していくこと。ふとこの自分の変わりように気づき、忘れないようにと数年前からメモを始めた。

メモし始めたのがどんな本をどれだけ読んでいた時期か定かではないけど、少なくとも変化に自覚できるくらい読書経験がついてきた頃。世界についておぼろげな理解だった初期に比べると、ずいぶん成長したと思う。

※私が主に読むのは、哲学や歴史などの人文書、またエッセイや詩集などの文芸書。

 

【初期~変化に気づく以前】

情報を得るための読書。私自身に経験や知識のストックがない頃で、基本的には情報を一方的に受け取る受身の行為だった。気になった文章には付箋やメモをしながら、とにかく読み進めて、何か学びがあればいいなくらいに思っていた。

 

【自分の人生に取り入れる期】

本の内容を取り入れ、咀嚼し、自分の生き方に反映させられるようになった。「情報をただ得る読書(受身)」から、「内容を人生に積極的に活かす読書」への変化。

冊数を重ねるうちに知識や思考の土台ができたのと、実人生における経験も少しずつ増えたことで、新しい事柄を自分の内側で処理する容量ができた。

内にできたこの機能のおかげで、読んだものを何でも鵜吞みにするではなく、自分で咀嚼し、思考し、よいと思ったことを人生に採用できるようになった。

 

【著者との親密な対話期】

古典を読めば読むほど、著者と話ができるようになる。「本を読む」という一人の行為から、「著者と議論する」二人(複数人)の行為=対話へ変化した時期。

それまでは内容を飲み込み、人生に少し取り入れることで精一杯だった。でもこの時期になると、本の内容について私の方から意見や疑問点が出てきて、それについて著書に問いかける(本の中に答えを探す)ようになった。

彼らの思想や考えをきき、自分で考え、そのうえでこちらから著者に批判を投げかける。その本に出てくる著者以外の人たちと複数人で議論することもある。もちろんすぐに反論されて結局歯が立たないことがほとんどだけど、それによって私の理解はさらに深まっていく。

内側のストックがさらに充実してきたことに加え、自分で考える力がついてきたことで、点と点だった知識がつながり、網目のように広がっていく楽しさがあるのもこの時期。読書が文字を読むこと以上の”体験”になった。

 

【著者と同じところを向く期(現在)】

最近、本の著者たちと向かい合って議論する段階を通り越したと感じる。

もちろん対話もするのだけど、それよりか著者と同じ方向、彼らの見ていたところを私も見つめ、一緒に考える読書と言った方が近い。彼らの隣に立って、向こうにある真理を一緒に探しているようなイメージ。著者と目を合わさない分距離がでたようにも感じるけれど、実際は肩を隣り合わせているので、より近い存在になっている。

彼らがそれぞれの言葉で表そうとした真理・普遍を、私も一緒になって本から、思索から、実人生から、探求している。

 

...2024年3月現在、この辺りにいる。さあ、これからどうなっていくのだろう。

思索の深まりや詩の創作、この辺りが読書と合わさってまた新しいところにいける…ような気がしている。

頭脳が足りなくて(訓練でどうにかなる部分と、生まれ持った能力の限界どちらもある)、まだ手が出せない古典がたくさんある。それでも、限りある残りの人生の時間で素晴らしい本や著者に出会うべく、読書を続けたいと思う。

f:id:yuki03816:20240305201523j:image