セネガルで暮らしながら

アフリカでのささやかな日々の中、ふと思ったことを書いています

「シェア」の精神

「余裕のある人がモノやお金を共有する文化」

セネガル(アフリカ全体)にはこの考え方がある。

 

例えば、ご飯を食べているときに誰かが通りかかったら、必ず「一緒に食べよう」と誘う。自分の取り分が少なくなっても一人で食べることはせず、みんなで分けるのが普通だ。

また、収入のほとんどを両親にあげたり、親戚と会ったら現金を渡すこともよくある。カップルや友人の間でも、男女関係なく、余裕のある方が相手にお金・食べ物・モノをあげる。結局、生活費などもろもろの出費で、給料日までにお金を使い果たしてしまう人もいるくらいだ(少なくとも私の周りには)。

これは、自分だけが富を持つのではなく、みんなで分け合おうという精神。ただ、一方がずっと渡し続けるのではなく、あくまでも余裕のある人が持ち物を共有するイメージだ。

f:id:yuki03816:20231007213530j:image

当然、日本人としてこの文化に入ると戸惑うことが多い。

日本では個人で食事することは普通だし、目の前の人を誘わなくても不自然ではない。また、お金が絡むことは汚い、避けるべきというイメージがあるから、特に友人やカップル間では簡単に現金を渡したりしない。自分で稼いだお金だから、自分の欲しいものだけを買う。自分のためだけに使う。貯金する。これをしておかしいと思われることはない。

でもアフリカの人からすると、日本人のやり方は「なんてケチなんだ、愛がないんだ」となる。もちろん自分のために何か買うのはいいのだけど、まだお金を持っているならシェアすればいいのに、と思われる(そして実際彼らから指摘されることもある)。一方で、この文化を知らない日本人からすると、アフリカの人の態度は「なんて傲慢なんだ」と感じてしまう。

俯瞰してみれば、このお互いの「ケチだ」「傲慢だ」という評価は、おおよそ間違っている。文化のはざまに立ったとき、それぞれが自分の価値観で異文化のやり方に反応しているだけで、本当にケチだったり傲慢だったりするわけではない。

付け加えておくと、両者にとって「お金がない」の意味が違う、というのもこのカルチャーショックの一因だ。日本人の「ない」は、今日のパンが買えない、ということではない。せいぜい娯楽に使えるお金がない、くらいの意味だ。でも私の周りには、夕食が買えない、病院に行けない人というもいる(貧困というより、持ち合わせがないという理由で)。

 

私はアフリカのこのような精神に、日々固定観念をほぐされている。日本人として譲れないところはもちろんあるけれど、彼らの豊かな精神には学ぶべきことが多い。

そう、やはり彼らの「シェア」精神は豊かなのだと思う。余裕のある人のモノ・お金をみんなでシェアする、「共有財産制(何かの本で読んだ言葉)」。彼らは、独り占めするよりもシェアした方が合理的だし、心が満たされることを知っているのだ。

 

今では、私も自分の財布に余裕があれば彼らに倣ってシェアをするようになった。現金やモノを渡したり、ご飯をおごったり。同じくらい、いやそれ以上にアフリカのみんなからは多くをもらっている。

この文化には「シェア」という言葉がしっくりくる。決して「支援」ではない。あくまでセネガル・アフリカの一住民として、兄弟・姉妹である彼らと生きていくんだ。余裕のある方が、ない方へ。いつもお互い様だ。

f:id:yuki03816:20231007213016j:image

あるセネガル人が言っていた。

「渡したお金はいつか別の形で必ず戻ってくる。」本当にそうだと思う。相手から親切にされたことはたとえ何年たっても忘れないし、何らかの形でめぐりめぐって自分に返ってくる。ただし、恩を売るため・お返し目当てでやっているのではなく、みんなで豊かになるためのシェアだ。

 

私にはまだまだ日本の感覚が残っているから(消すつもりもないけど)、こちらの文化に違和感を抱くことが多い。でも、このシェアの精神みたいに、豊かだな~いいな~と思ったことは私の生活にも取り入れたいと思う。

日本にずっと住んでいたら、こういう気づきや行動の変化はなかっただろうな。人間として、自分の精神がさらに深まるのを感じる。

f:id:yuki03816:20231007212940j:image