セネガルで暮らしながら

アフリカでのささやかな日々の中、ふと思ったことを書いています

創作する

この歳になってようやく、作品を創る楽しさがわかってきた。

数年前から書きためていた詩を、一つの詩集にまとめる作業を始めた。完成しても特に社会へ向けて発する予定はないけれど、逆にその目的のないところがミソだったりする。 誰に言われたわけでも、誰に見せるわけでもない、締め切りも何もない、ここに宿る充実。

 

このあたりに、人間特有のエネルギーというか、欲求の消化場所があるように思う。一つの作品を創るって、何かこう、それだけで完結する崇高な活動だ。100人中100人の他者がくだらないと評価しても、本人は痛くも痒くもない。自分のエネルギーや生き方を表現する、その創作自体が楽しいので本人は満たされている。

 

私にとってこのエネルギーをぶつけるものが、詩だ。最近こっちの友達に、「ここで何がしたいの?」と聞かれ、素直に「書きたい」と答えた自分がいた。心の奥底ではずっと思っていたような気がして、実際ことばに出したら「うん、やっぱり」としっくりきた。

 

他人に見せるためというよりは、自分の想いを形にしただけの詩や詩集。私の見た世界を私の言葉で、無目的に書き連ねたい。 こういう楽しさが、26歳になりわかってきた。

 

【創作ということに関して、ここ数年で目にしたエピソードなど】

(こういうのに少しずつ触れて、私の創作意欲が水面下で掻き立てられていたのかもしれない、と思う。)

宮沢賢治の詩集『春と修羅』は、彼が25~27歳のときに書きためたものだそう。「永訣の朝」は26歳。まさに私の年齢。

宮沢賢治 農民芸術概論綱要

岡本太郎さんのことばから(『壁を破る言葉』p89)

「芸術というのは認められるとか、売れるとか、そんなことはどうでもいいんだよ。無条件で、自分ひとりで、宇宙にひらけばいいんだ。」

ショーペンハウエルの著書から(『幸福について』鈴木芳子訳、光文社古典新訳文庫、p262

何かをする、できれば何かを成し遂げる、せめて何かを学ぶといった活動は、人間の幸福に欠かせない。(中略)この点で最大の満足が得られるのは、何かを「作る」こと、仕上げることだ。籠でもいい、本でもいい。ひとつの作品が自分の手で日々、成長し、ついに完成したのを見ると、直接的な幸せが味わえる。芸術作品や著作はこうした働きをする。

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