家路に向かう人やマルシェを行きかう人にまぎれ、夕暮れのセネガルをゆっくり歩く。
身内のいない、言葉も文化も全く違う異国の町で、お金・スマホなどは持たず、行き先も決めず、思い立った曲がり角を好きに曲がる散歩。
散歩中の、世界中の誰ともつながっていない、何も持っていない、この感じがお気に入り。自由、といったらありふれているけど、何にも縛られず自分を更地にするような感覚がいい。
生活の中のこういう空白を、大切にしたい。
この世には「もう大丈夫、ひとりじゃないよ」みたいな歌詞がたくさんある。
ふと、本当にそうだろうかと思う。どれだけ大勢友達がいようと、誰が隣にいようと、人間は究極、独りだ。どうあがいたって他人の人生を代わりにやってあげることはできないし、死ぬときだって一人でしかありえない。寄り添ってかりそめの安心感を与えてあげても、心の底の孤独や虚無を他人が消してあげることはできない。
だから思う、これ、そもそも逆なのでは?本当の「大丈夫」っていうのは、人間絶対に独りだということをからだで、心で受け入れてからはじめて得られるのではないか。
徹底的に孤独の自分を見つめ続け、その自分を受け入れること、「何もない」に慣れること。これをずっとやっていくと、寂しくないどころか、独り/何もないということに安心感が出てくる(不思議)。私からは何も奪うことができない、という安心感(?)だろうか。
自分の内を見つめ、ゼロの自分を受け入れることで、逆により広い視点でものを考えることができるようになるのかもしれない。
何にもないことに自由を感じて、独りであることに安心感を持てたら、「大丈夫」。
セネガルの薄暗くなりかけた空の下、こんなことを考えた。