お金がない。月末頃になるにつれ、お金の余裕がなくなってきた。軽率な出費ができないので、買い物は来月まで控えることにする。
とはいいつつも私、この状況に焦りやひもじさがあるわけではない。心はいつもと変わらず穏やかだ。
実は私、この「お金に余裕のない」生活を、自分では「余裕のある暮らし」であると思っている。矛盾に聞こえるだろうか。でも考えれば考えるほどそうなのだ。
今回は、最近思い至った、”余裕”という言葉の不思議について書いてみたい。
そもそも、「何かに余裕がある」とはどういう状態だろう?
一般的な”余裕”の意味は、「余りがあって豊かであること」「必要分以上に余りがあること」。でも、この一見単純な言葉を深堀すると、面白いことがわかる。
「余裕」にいろいろな言葉を当てはめて、その意味を考えてみる。
心に余裕がある ⇒(心理的)空白がある
時間に余裕がある ⇒(時間的)空白がある
お金に余裕がある ⇒(金銭的に)満ち満ちている
あれ、おかしいぞと思う。お金に関してだけ、いっぱいに満たされた状態のことをさしてしまう。この辺りに何か面白い秘密がありそうだ。
「お金に余裕がある」は、余裕があるか?
実は私、「お金に余裕がある」ことにあまり余裕を感じない。なぜか。
あふれるほどのお金は、一見よいもののように思える。でも、どうだろう。それを持つ自分自身は、多額のお金を維持したい、さらには増やしたいという意識・無意識下でのハラハラした欲求を常に抱いている。また、何に使うべきか、あれもこれもしたい、という思いは無限にわいて止まることがない。おまけに、たくさんのお金を使うためには、その分自分の時間を犠牲にしなければいけない。
ここまできて、ようやく気づく。必要以上に有り余るお金は、心や時間の余裕を奪ってしまうじゃないか。「お金の余裕」は、その他の余裕をなくす。たくさんのお金でアップアップした状態には、余裕など感じられない。
「有り余るお金、自分はちゃんと管理できるんですよ。だからお金に余裕が欲しいんですよ。」という人もいるかもしれない。でも、ほらそれ。お金を得る(お金の余裕を持つ)ことが目的になってないかい?
そう、お金というのは、気を抜くとすぐに人生の”手段”から”目的”に躍り出ようとしてくる。そうなればもはや、お金は心や時間の余裕を奪う以外の何物でもない。
だから私は、素直に「お金の余裕」を余裕がある状態とは言えないと思う。
「ほんとうの余裕」とはどういう状態だろう?
少なくとも私は、「ほんとうの余裕」を持つためには、お金の余裕(=お金で満ち満ちた状態)よりも、まず心や時間の余裕(=空白)が必要だと思う。心と時間のゆとりの中ではじめて、どのくらいのお金が必要か正しく考えられる。
当然、この社会で生きていくためにはお金が必要だ。目的ではなく、手段としてのお金。だから、生きるため、やりたいことを実現するために必要なお金の量を、ゆとりある心と時間の中で考えよう。
ああ、私たちはみんな、順番を間違えていたのだ。「お金の余裕」を第一にしてその他の余裕を犠牲にし、それで稼いだお金のために心や時間の余裕を一層なくす、という悪循環をしていた。
「ほんとうの余裕」は、「心と時間の余裕」を第一にして形づくられる。これは、”余裕”という言葉を表面的にとらえただけでは気づけない、秘密みたいなもの。
私には「暮らしの余裕」がある
だから私は、「暮らしの余裕」をこう考えていたい。
暮らしの余裕 =心と時間に空白があって、必要最低限以上のお金があること
私の生活は心と時間の空白に満ちている。最低限だけれど、生きていくお金がある。それに、お金が少ないくせに”余裕”という言葉の不思議で遊んでいられる私は、やっぱり「暮らしに余裕がある」と思うのだけど、どうだろう。
「お金の余裕」のために心と時間を乱されて、本質を見失ってしまわぬように。余裕をもって、人生のほんとうについて考え続けたい。
(月を見るのが日課になった)