セネガルで暮らしながら

アフリカでのささやかな日々の中、ふと思ったことを書いています

つぶやき

思うに、すべての人が自分の人生を、自分に与えられた時間をしっかり丁寧に生きることができたら、この世の中はもう少しきれいにうまくいくんじゃないか。

すでに自分が持っているもの(心や時間、からだ、生活環境、もの、願望、文化など)を省みて、それをじっくり味わってみる。そのうえで、人生にとって何が「ほんとう」に大切で、自分自身がどう生きたいのか考える。各々これができれば、もう少し良い世界になる気がするのだけど、どうだろう。

自分のことをしっかり考えられていないのに、他人の人生に口出しをしたり、他人の物を羨ましがって要求する。人をコントロールしてかりそめの快楽を得たり、人間がつくりだしたに過ぎない小さな“世間”や“お金”にあくせくする。

一方で、自分の内面ををのぞいてみると、空っぽのまま。内にある漠然とした虚無感を他人へのあれこれで埋めているだけなので、人間としての精神は貧弱だ。他人に意識を向けるほうが、実際、ラクなんだろう。灯台下暗し、自分のことはよく見ないし見えないけれど、他人のことは灯台の光に照らされ嫌なところまでよく見えてしまう。自分を直視するのが怖いから、他者に目をそらすことで満足するのだ。

でも、他人ばかり照らす(見る)ことに夢中になり、自分をないがしろにして、灯台の根本が腐ってしまっては元も子もない。 まずは己を直視し、すでに持っているものをしっかり味わい、人生の「ほんとう」を考えながら、自分自身をしっかり生きる。今、この“いま”を生きる。

日ごろから自分の精神を鍛えておくことがどれほど大切か、あらゆる場面で思う。死ぬ直前になって、ああ自分は空っぽだと気づいても、どうしようもないではないか。

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私はここで幸せに生きています。社会的に見たら低収入で、決して派手な生活ではないけれど、幸せです。私独自の価値を持ち、それによって満たされているからです。社会や世間の基準はとうに捨てました。でも、私は私やその周りあるものの「ほんとう」を見極めようとする精神を持っていて、今もそれは育っています。お金などというちっぽけなものではなく、太陽や風、草木、海が私にとっての宝石です。こう考えられる感受性と頭がある限り、私は幸せです。

 

「ほんとう」を考えられなくなった世間へ

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