質素な生活で、あらゆる欲がなくなりつつある気がする。時間と心にゆとりのあるシンプルな毎日、気づけば今あるものに満足して、必要以上に欲しなくなっていた。
こういう暮らしで、面白いことに気づいた。”私自身は今に満足して何も求めていないのに、驚くほどいろいろなものが、不思議と勝手に舞い込んでくる”という発見。求めなくても、いや「求めなければ手に入る」これ、ひそかに真理だと思っている。
先日も急遽バカンスに出かける機会をいただいた。私自身毎日の生活に完全に満足していたので、まったくの棚からぼたもち。うれしさを噛みしめて、存分に楽しませてもらった。
そのほかにも、望んでいないのに何かをもらったり、してもらったりすることが以前より増えた気がする。はて、どうして欲がなければ多くを手に入れられるんだろう?
これ、案外答えは簡単だ。
欲するものが何もないから、何かを受け取るとその全てが”ありがたい余剰”になり、舞い込んできたように感じる。いつも同じ頻度で起きていることに、欲がなくなった私の方が気づけるようになった、というわけ。変わったのは私の意識で、周りには相変わらず同じ世界が流れている。
なるほど、これは「足るを知る」ようになったおかげだ。お金や物から距離をおいた生活で、“ない”より“ある”を見てありのままを満足と思えるようになった。
心のデフォルトがこうである方が、いろいろ負担が少なくて平穏だ。「なくてもすでに満たされているし、いただければありがたい」
そうそう、近頃は「ありがたいけど、さすがにそんなにたくさんはいりません..」となることも多い。そういうときは、自分の心や体と相談して断るようにしている。あふれないぴったりサイズが最も幸福だということが、実感でわかってきたから。
舞い込んでくれば何でも受け取るわけではなく、控えめに。物質的な贅沢に慣れると人間、満足の上限がどんどん更新されて、気づけば不満足状態に陥ってしまう。物質的快楽による際限ない欲求に惑わされて、心の平穏が失われないように。
自分の人生において何が大切か、何のために何をしているのか、考えていなきゃいけない。
欲がないと、どうなるか。暇になる。私はこの暇ゆえに、起きたことを一つ一つ、心の動きまで丁寧に観察するようになった。すると、気づけば心をいま・ここにおいて、ただ在ることを楽しむことができる自分がいた。不思議な好循環だ。
求めることなく両手を空にして、なるように、あるように。
世界の仕組みを少しずつ知っていく。