セネガルで暮らしながら

アフリカでのささやかな日々の中、ふと思ったことを書いています

大統領にモバイル通信を制限される

タイトルの事情もあり、一週間ほどネット環境から距離を置いていた時のメモ。

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セネガルに来てからスマホの使用時間が増えたのでそろそろ減らしたいな、と思っていたときにきた、大統領によるモバイル通信制限(※)と、家のWi-Fiの故障。

ネットにつながらないから、ふとした時間の隙間にスマホが入り込むこともなくなり、思いもよらない快適さを味わっている。

こうやって離れてみると、やっぱり最近は使い過ぎだったなと思うし、でもこれって砂糖みたいな中毒性があって、今回のようなことがない限りやめようと思っても容易にやめられないものだと実感する。

強制的に遮断してくれた大統領マッキー・サルくんに、ちょっとだけ感謝している私である。

制限がかかることで、日ごろ自分がどれほどネットに依存していたのかがわかる。もれなく周りの人がどれだけ依存していたかも。

職場の現地人スタッフたちも、スマホなしの生活は考えられないというくらい、普段から少しでも時間があれば画面を見ている。

今回も「ネットがないと退屈~」と言いながら、結局ダウンロードした映画を観ていた。スマホ依存度合は、日本に負けていない。

でも全体的に、ネットがないことへの耐性は日本人よりあるように思う。日本でどこかのキャリアの通信障害があったとき大変な騒ぎになったけど、セネガルではそんなことはない。

通信障害か強制的な遮断かの違いはあるにせよ、ここではひどく取り乱す人もいないし、イライラしている人もなぜだかいない。

同じように”依存”しているようにみえるのに、この差は何だろう。

セネガルでは、普段からいろいろなインフラが途切れることが多いので、何かが”ない”ことに慣れているというのもあるのかな。逆に、日本ではそういったインフラの遮断がほとんどないので、いざなくなると騒ぎになるのかもしれない。

でも、物事の考え方というか、精神面の違いもある気がする。”ない”ということに対して寛容でいられる心、”何もしない”ことができる力を、彼らは持っているのではないかとこの国を見ていて思う。スマホが心にまで入り込んでない感じ、とでもいうのかな。

では逆に、なぜ日本ではネットの環境が心のゆとりにまで影響してしまうんだろう。いずれ考えてみたい。

...…

私は正直、今回ネットが遮断されてせいせいした。

人間がつくったデジタルを介さず、地球を感じられる喜び。自分とじっくり向き合える快感。画面なしで、人と時を共有できる充実感。

こういうのって現代人がないがしろにしてきたものでも一番大きいと思う(あらためて最近はスマホを使い過ぎていたと反省)。

やっぱり私は、自分の目で、足で、じかに世界を感じたい。ありのままの自分で「生きる」をやりたい。

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といったことを徒然と思っていた、通信制限の期間だった。

(モバイル通信は相変わらずだめだけど、Wi-Fiを修理してもらえたのでネットは復活した。個人的にはもう少しネットなしが続いてもよかったな)

 

※今回の通信制限は、来年に控える大統領選挙にかかる一連の騒動の影響で、デモの呼びかけなど国民の動きを制限するため、と言われている。だけど固定のWi-Fiは普通に使えていたようだし、毎日深夜の数時間は通信制限も解除される、というゆるさ。

軍人さんもネットを使いたかったのかも、とゆるく想像している(本当のところはわからないけど)。

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