セネガルで暮らしながら

アフリカでのささやかな日々の中、ふと思ったことを書いています

ネコがひかれていた

ここでは、動物の死を見ることが多い。

車にひかれても道端に放置されることが多く、ウジがわいたりハエがたかっていたりする。慣れないうちはうわっとなっていたけれど、今はもう普通の光景になってしまった。

またある時には、近所をぼーっと散歩中に、羊の皮やはらわたが足元に転がっているのを見つけて驚いた。何かのお祝い事でさばいた後、そのまま放置していたらしい。

セネガルでは、動物の死やゴミ、汚水など、人間生活のあるがままを直視する毎日だ。こういう現実は嫌煙されがちで、社会によってはうまく隠されていたりするけれど、結局誰かが処理しているということに変わりない。

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死があれば生もある。庭で野良の子猫が生まれていた。命は循環するのだ、と体感的に納得する。

食べ物にしてもしかり。お祝い事でさばかれる羊も、マルシェで解体される魚も、収穫された野菜も米も、すべてもとは生きていたもの。私たちが生きるためには、否応なしに何かの“死”を身体に取り入れなければいけない。そう、何かが生きるためには別の何かの死を取り入れるしかなくて、この自然の循環から逃れられる者はいない。それにしても、生のエネルギーが死だなんて不思議だなァ。

いつか私の死も、何か(誰か)のエネルギーにしてもらうために。今、ありがたく命をいただこうと思う。


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