セネガルで暮らしながら

アフリカでのささやかな日々の中、ふと思ったことを書いています

好きな詩人

長田弘さんの詩が好きだ。

 

心にすっと入ってくる詩。数いる詩人の中でも、特に話が合うなあと感じる。考え方やものの見方の”型”が近いんだろう。 私は勝手に、「三人目のおじいちゃん」と呼んでいる。

言葉であたたかく読み手を包み込む、かどのない柔らかい感じ。 読んだあといつもふんわりする、それがよくてこの空間に定期的に帰ってくる。

たのしむとは沈黙に聴きいることだ。

木々のうえの日の光り。

鳥の影。

花のまわりの正午の静けさ。

(「静かな日」より)

 

かといって、優しい優しい詩だけではない。ギクッとなるような、ぞっとするような、不思議な詩もあって、それがまたいい。優しい言葉で書かれた恐ろしい詩、この絶妙さがたまらない。読めば読むほど長田さんの世界に引き込まれる。

くうか

くわれるか、

人生は食事だ。

 

あとにはただ、

台所に、

死体がひとつ。

(「殺人者の食事」より)

 

長田さんといえば、言葉。言葉の不可思議を見つめながら、それでも言葉を深く理解して、丁寧に大切に扱っている。表現した途端消えてしまう「意味」や「思い」、それさえも言葉で輪郭を浮き上がらせる長田さんは、”言葉の親友”だ。

何かとしかいえないものがある。

黙って、一杯の熱いコーヒーを飲みほすんだ。

それから、コーヒーをもう一杯。

それはきっと二杯めのコーヒーのなかにある。

(「何かとしかいえないもの」より)

 

心が疲れたときは、いつも長田さんの詩集をひらく。

スピードと効率ばかりが求められるこの情報化社会で、でもやっぱりここにいていいよといってくれる。「ファーブルさん」は特に好きな詩のひとつだ。

目を開けて、見るだけでよかった。

耳を澄ませて、聴くだけでよかった。

どこにでもない。この世の目ざましい真実は、

いつでも目のまえの、ありふれた光景のなかにある。

(中略)

偉大とされるものが、偉大なのではない。

美しいとされるものが、美しいのではない。

最小ノモノニモ、最大ノ驚異アリ。

ファーブルさんは、小さな虫たちを愛した。

(中略)

狭いほうからしか世界を見ない人たちの、

とげとげしいまるで人を罵るような言葉。

呪文のような用語や七むつかしい言いまわし。

ファーブルさんは、お高い言葉には背をむけた。

 

言葉は、きめの細かな、単純な言葉がいい。

古い方言や諺や日用品のようによくなじんだ言葉。

(「ファーブルさん」 より)

 

言葉を使う人間の一人として、私がいつも大切にしている詩「コトバの揚げ方」。

書くのにも話すのにも、自分の言葉をみつけること。忘れがちなので、何度もここに立ち返ろう。

コトバは肝心なんだ。

食うべき詩は

出来あいじゃ食えない。

コトバはてめえの食いものだもの。

(「コトバの揚げ方」より)

 

詩が好きだ。読むと新しい世界をみせてくれ、ふさいだ心をひらいてくれる。私もそんな詩が書けるようになりたい。

 

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