長田弘さんの詩が好きだ。
心にすっと入ってくる詩。数いる詩人の中でも、特に話が合うなあと感じる。考え方やものの見方の”型”が近いんだろう。 私は勝手に、「三人目のおじいちゃん」と呼んでいる。
言葉であたたかく読み手を包み込む、かどのない柔らかい感じ。 読んだあといつもふんわりする、それがよくてこの空間に定期的に帰ってくる。
たのしむとは沈黙に聴きいることだ。
木々のうえの日の光り。
鳥の影。
花のまわりの正午の静けさ。
(「静かな日」より)
かといって、優しい優しい詩だけではない。ギクッとなるような、ぞっとするような、不思議な詩もあって、それがまたいい。優しい言葉で書かれた恐ろしい詩、この絶妙さがたまらない。読めば読むほど長田さんの世界に引き込まれる。
くうか
くわれるか、
人生は食事だ。
あとにはただ、
台所に、
死体がひとつ。
(「殺人者の食事」より)
長田さんといえば、言葉。言葉の不可思議を見つめながら、それでも言葉を深く理解して、丁寧に大切に扱っている。表現した途端消えてしまう「意味」や「思い」、それさえも言葉で輪郭を浮き上がらせる長田さんは、”言葉の親友”だ。
何かとしかいえないものがある。
黙って、一杯の熱いコーヒーを飲みほすんだ。
それから、コーヒーをもう一杯。
それはきっと二杯めのコーヒーのなかにある。
(「何かとしかいえないもの」より)
心が疲れたときは、いつも長田さんの詩集をひらく。
スピードと効率ばかりが求められるこの情報化社会で、でもやっぱりここにいていいよといってくれる。「ファーブルさん」は特に好きな詩のひとつだ。
目を開けて、見るだけでよかった。
耳を澄ませて、聴くだけでよかった。
どこにでもない。この世の目ざましい真実は、
いつでも目のまえの、ありふれた光景のなかにある。
(中略)
偉大とされるものが、偉大なのではない。
美しいとされるものが、美しいのではない。
最小ノモノニモ、最大ノ驚異アリ。
ファーブルさんは、小さな虫たちを愛した。
(中略)
狭いほうからしか世界を見ない人たちの、
とげとげしいまるで人を罵るような言葉。
呪文のような用語や七むつかしい言いまわし。
ファーブルさんは、お高い言葉には背をむけた。
言葉は、きめの細かな、単純な言葉がいい。
古い方言や諺や日用品のようによくなじんだ言葉。
(「ファーブルさん」 より)
言葉を使う人間の一人として、私がいつも大切にしている詩「コトバの揚げ方」。
書くのにも話すのにも、自分の言葉をみつけること。忘れがちなので、何度もここに立ち返ろう。
コトバは肝心なんだ。
食うべき詩は
出来あいじゃ食えない。
コトバはてめえの食いものだもの。
(「コトバの揚げ方」より)
詩が好きだ。読むと新しい世界をみせてくれ、ふさいだ心をひらいてくれる。私もそんな詩が書けるようになりたい。