セネガルで暮らしながら

アフリカでのささやかな日々の中、ふと思ったことを書いています

しなやかな強さ

うれしいことやモヤっとすること、悔しいことや笑えること、日々いろいろなことがあって、相変わらず人間をやっている。

日本にいたときより、新しい人と関わる頻度・密度が増えたので、その分考えさせられることも増えた。楽しい反面、もともと一人が好きな私のキャパを越えてしまうこともあり、意識して度合をコントロールしている。

外国で生活していて、人間の普遍的な一面に気づく。本音と建前。セネガルの人たちも本音というのは全然言わなくて、本人にはいいことを取り繕い、裏では全く別のことを言ったり思ったりしている。日本人だから、セネガル人だからということではなく、地域によって程度の差はあれ、人間はそういうものだと理解した。

そういうものだな、と思えるまでが少し大変。裏でたいそうな悪口をいっているのが聞こえてきたりすると、たとえ私に対してじゃなくても人間の醜い部分が強く意識され、どっと疲れてしまう。でも、そういうものなのだ。26歳、これまで濃い人間関係を極力避けてきた私にとっては新鮮なことばかりで、少しずつ学んでいる。

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最近、「しなやかな強さ」が身についてきたと思う。人間と関わることで、いじわるや暴言、嘘、不正、不機嫌、幻滅するようなことにたくさん出会い、心が鍛えられている。素直に受けとってへこたれがちな私だったけれど、だんだん切り抜け方の要領を得てきた。ただカチカチにかたい「強さ」ではなくて、どれほどしなっても折れないような、しなやかな強さを持つこと。

どんなに嫌な言葉がきこえてこようとも、不正をされようとも、「だれも私の生を悪くしなかった」と思う。人を悪く言う人や不正をする人は、結局そのことによって自分自身の精神を悪くしている。精神が悪いということは、精神が卑しいということだ。ところで、卑しいということは恥ずかしい。私は、その恥ずかしさが嫌なので、精神を悪くするようなことをしないよう努力したい。

最近はむしろ、そういうことが起きるたび、何かすがすがしいものさえ感じる。その個別の事象において、私自身は私自身を悪くしなかったから。私の精神は清いまま、相手の精神だけが卑しくなった。

もちろん、そんなことがあったときは毎回、自分を振り返ることも忘れない。私にもいけないところがあったのでは?改善できる部分があったのでは?客観的にみて、あればそこを直す。それでも思い当たることがないなら問題ない。

もう少し遠くからも俯瞰する。私も別の場所で同じように人を嫌な気持ちにさせたことはなかったか?ないはずはない。結局は同じ人間、そういう性質を本性に備えている以上、自分のことも常に監視しないといけない。己の醜さをみつめ続ける。

一人でいるときのほうが、善く在れるので心地いい。でも、他人と関わって心が動いたときにいい詩が生まれたりするので、それも面白かったりする。

一人か多数か。どちらにせよ、私は私の精神の世話をして、善くありたいと思う。

 

 

【とくに意味はないけれど、最近のメモより抜粋】

・クッキーが焼けるのを待つ時間は特別 人へのプレゼントならなおさらだ

ショーペンハウエルが「精神的に多くを持っている人への嫉妬が、あらゆる嫉妬の中でも根深く、陰湿である」というようなことを言っていた

・電気を消して、ベッドに入って、沈黙の音が聞こえたときのにぎやかさ

・心ここにない朝食ほどつまらぬものはない

・どこか別の惑星の あの子の「美しい」と思うものを見てみたい